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上毛孤児院之墓地


 明治時代になって、自由民権やキリスト教の思想や活動に刺激され、地域の中へ積極的に仏教伝道を行う動きが現れた。
 明治13(1880)年に組織された仏教系結社「前橋積善会」はその先駆けで、貧困者を救済することを目的とした。楫取素彦県令の協賛を得て会は発展したが、明治16(1883)年の前橋大火で全資金を提供したため、いったん中断するなどの曲折はあったものの、同30年から活動も軌道に乗った。積善会の事業として高く評価されているのが医療活動である。明治37(1 904)年1月前橋医師会と薬剤師会の協力を得て、施薬救済を始めた。5月には前橋市前代田に病舎を建設し、前橋医師会の協力で月次輪番で診療投薬を行うようになった。そして同44年には前橋市紺屋町に前橋医師会・薬剤師会と共同で外来患者診療所を開設した。
 さらに大正5(1916)年には済生会群馬県支部の委託で前代田の病舎に結核病舎を併設した。同10年には前橋市の委嘱で行路病者および精神病者の収容を開始した。昭和3(1928)年前橋市宗甫分に病棟・附属建物を建設し「厩橋病院」と命名し、院長に東京市立松沢病院から前田忠重を招いた。
 こうして、積善会の医療活動は、前代田に積善病室(施療、委託患者収容)、宗甫分に厩橋病院(精神科)、芳町に厩橋診療所(診察無料)の体制で、貧困者への施療や社会的な偏見によって冷遇された精神病や結核病の患者への救済を行った。
 会の組織は会長・副会長、評議員の過半数が僧侶で、市内の有力者の支援を得て事業が進められた。市内の有力者の中には、初代市長・下村善太郎、衆議院議員を務めたその子・善右衛門や野中興行創業者・野中倉吉らがいた。野中家は倉吉のあとも、康弘(三代吉)、恒雄と三代のわたり積善会の理事や評議員を務めた。
 長昌寺住職では、32世福垣仙洲が明治39(1906)年積善会常務員、同45年に会長に就任し、34世後藤仙鳳が大正9(1920)年評議員、同14年理事、昭和2(1927)年理事・評議員、同25年理事長を歴任した。35世栗木虔堂も昭和38(1963)年から評議員、同53年から理事長を務めた。
 詩人の鈴木比呂志は栗木虔堂を「傑出した僧侶で、いまどき珍しい名僧智識」と尊敬していた。鈴木が作詞、服部良一が作曲を担当し『交響詩曲ぐんま』を制作することになった。服部はここに観音経の一部を採り入れようと考えた。鈴木の紹介で昭和45(1970)年10月16日長昌寺を訪ねることになった。栗木虔堂の上げる観音経に聴き惚れた服部は、その木魚と鏧子(鉦)を借りて昭和46年10月29日の初演コンサートを披露し、大成功を収めた。長昌寺の鏧子は日露戦争の戦勝祝いに贈られたものであった。

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