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本城氏との絆 大黒様 住職と積善会 宮内文作 長昌寺に眠る名士 長昌寺に眠る名士 上毛孤児院之墓地 墓地図


上毛孤児院之墓地


 長昌寺墓地には、明治期から昭和戦後期にかけて群馬県の演劇・映画文化を担った野中興業株式会社創業者一族が眠っている。
 野中倉吉は、嘉永5(1852)年新潟県南蒲原郡見附新町に生まれた。新潟から前橋へ出てきて裸一貫で身を起こし、前橋市内の芝居小屋「愛宕座」を買収し、「柳座」と改め経営するいっぽうで、県内初の映画常設館(活動写真館)「みやこ館」(のちのオリオン座)を創設し、映画の普及に尽力した。同館は明治43(1910)年に開かれた一府十四県連合共進会場に設けられた映画館を引き継いだものであった。「みやこ館」は名称が「柳盛館」「光映館」「帝国館」と変わった。倉吉は慈善興行の益金を積善会に寄付するなど社会事業にも熱心に尽力した。衆議院議員関口安太郎派の議員として市会でも十人組を組織し、市政の有力者であった。明治45(1912)年死去。
 野中康弘は、明治15(1882)年前橋に生まれた。本名は三代吉。明治34(1901)年県立前橋中学校(前橋高校)2年の時、校長排斥のストライキを実行して、親友・平井晩村(詩人)とともに中退。家業を手伝うが父・倉吉と意見が対立し、職業を転々とした。父との和解が成立し「柳座」を経営。高崎・伊勢崎・富岡・沼田・藤岡などの映画館を傘下に置き、昭和5(1930)年その数は10を越えた。業界では「関東の興業王」と呼ばれた。昭和13(1938)年死去。
 野中恒雄は、明治45年前橋市に生まれた。県立前橋中学校中退。昭和13年に野中興行部を継ぎ、同18(1943)年野中興業株式会社を設立した。昭和30年には県下に映画館十八館を経営。群馬交響楽団を取り上げた映画『ここに泉あり』の制作に全面協力し、その成功に導いた。昭和30年代は映画の黄金期であったが、テレビの普及により映画産業が衰退期に入ると、前橋松竹を「十字屋」、前橋ヒカリ座を「長崎屋」に貸しビルとしたり、前橋第一大和は食堂に転身したりと多角経営に乗り出した。
 野中さか江は、明治33(1900)年前橋市に生まれた。前橋高等女学校から日本女子大学を卒業。敗戦後の昭和20(1945)年女性解放を目的に県婦人会を結成し、事務局長を務めた。宮城タマヨ参議院議員の秘書を経て、帰郷後は県茶道会を設立し理事長から会長、国際ソロプチミストの県副会長から会長、ガールスカウト県支部長などを歴任した。昭和46(1971)年トキワ保育園を設立。県社会教育功労賞、同県功労者表彰を受けた。
 山﨑秀冠は、大正7(1918)年野中康弘を父に生まれた。日本女子大学家政科を卒業し、昭和16(1941)年山﨑二郎と結婚した。同30(1955)年山﨑学園の前身となる「前橋クッキングスクール」を北曲輪町(大手町)に開校。同校は北関東で初となる調理師学校「群馬調理師学校」に発展し、県内に7つの専門学校を有する「学校法人山﨑学園」となった。昭和40年に開業した「食堂スワン」は株式会社スワンに発展。戦後群馬の食文化を担い、その功績から平成8年勲5等瑞宝章、同10年フランス共和国シュヴァリエ章など数多くの章を授与された。平成19年死去、享年89歳。
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