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本城氏との絆 大黒様 住職と積善会 宮内文作 長昌寺に眠る名士 長昌寺に眠る名士 上毛孤児院之墓地 墓地図


上毛孤児院之墓地


 宮内文作との関係であろうか、長昌寺墓域にはクリスチャンの墓が多数見られる。
 上毛孤児院の創立者は宮内文作であるが、その協力者に横地源七郎と金子尚雄がいた。上毛孤児院にとって宮内、横地、金子が三本の矢であった。
 横地は勢多郡荒牧村の関口家に生まれ、向町の横地みつの養子となった。明治18(1885)年に宮内と一緒に海老名弾正から受洗して前橋教会員となった。宮内から孤児院設立の相談を受け、私財を捧げ貢献したが、明治27年3月27日に急逝した。
 金子は明治元年埼玉県南埼玉郡川通村に生まれた。郡立粕壁中学校3年で中退、明治22(1889)年志願して第一師団騎兵隊に入隊したが、ケガにより兵役免除となった。除隊後に数寄屋橋教会で受洗。北海道に渡り、札幌教会で宣教師ノイス夫妻の世話をしていたが、夫妻の前橋転任に同行し前橋教会員となった。
 石井十次が経営する岡山孤児院を視察し、石井から「孤児院をクリスチャンホームとなし、平和に充ちた家庭として、愛の誡めの中に衆多の孤児を育つべし」と助言され、共愛女学校生徒矢野かつ子の卒業を待って結婚し、金子夫妻は孤児の院父・院母となって上毛孤児院を運営した。
 しかし、かつ子は明治26(1893)年12月1日肺結核により急逝した。結婚して金子の妻となり、孤児の院母となってわずか一年半のことであった。けれども明治27年6月13日金子は伊藤おなじと再婚、おなじが院母となった。上毛孤児院は金子夫妻の献身的な努力により運営・維持された。尚雄は昭和16年73歳で、おなじは昭和39(1964)年92歳で昇天した。
 金子尚雄院長によって「上毛孤児院之墓」が大正8(1919)年に長昌寺墓域に建立された。金子夫妻もそのとなりに建てられた「金子家之墓」に眠っている。
 また、その奥には瀬間福一郎・千代子夫妻の墓もある。瀬間は明治10年(1877)馬山村(下仁田町)に生まれた。幼少期に失明、東京盲学校を卒業し、横浜基督教訓盲院嘱託などを経て前橋市で鍼按を開業。明治35(1902)年から瀬間塾を開いて盲人に点字を用いて一般教養から鍼按まで教育した。群馬県での点字を使用した最初の盲教育機関であった。同38年県視学・大束重善と相談し、上野教育会附属訓盲所を開設し、失明軍人の教育に当たった。
 その後、昭和2(1927)年に県立盲啞学校が誕生するまで、私立前橋盲学校を中心に千代子夫人とともに盲人教育に尽力した。夫妻はともに敬虔なクリスチャンで前橋教会員であった。瀬間は昭和37(1962)年に死去した。
 さらに、私立前橋盲学校創立者の後藤源久郎(産科医・前橋教会員)も眠っている。後藤は前橋市が経費節減を理由に廃止に踏み切った訓盲所を私財を投じ引き継いだ盲教育の恩人である。

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