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上毛孤児院之墓地



 長昌寺には宮内家の立派な墓がある。その中に宮内文作の墓石がある。
 宮内文作は天保5(1834)年に前橋に生まれた。明治9(1876)年、県庁が前橋に移転されることを聞き旅館「住吉屋」(現在の前橋テルサの場所)を開業した。住吉屋は大旅館となったが同16(1883)年の大火で焼失した。火元は住吉屋であると濡れ衣を着せられ、その復讐をはかろうとしたが、火事見舞いにやってきた縁戚に当たる牧師・笛木角太郎から復讐の罪悪であることを教えられ、心機一転、福音に耳を傾け、同一八年前橋教会牧師・海老名弾正から洗礼を受けた。
 明治24(1891)年の濃尾地震による孤児の惨状を宿泊客から聞き、その救済を決意し家族や知人に相談した。「異境の地で孤児を引き取るのは、孤児にとって環境的に不幸である」と反対されたが、孤児救済の念願は捨てず、翌25年6月30日、上毛孤児院(昭和16年上毛愛隣社、同50年地行園と改称)を設立した。
 明治29年明治三陸地震による大津波が起き、凄惨な被害状況が伝えられると、文作は一両の荷車をつくり、車を引いて県内各地を回り義捐を募って被害者を救済した。文作の義挙を知った岩手県宮古地方の人々は感激し、地元で孤児の世話をするようになった。
 慈愛の手は、身寄りのない老人にも差し伸べられ、明治36(1903)年2月14日上毛慈恵会養老院(前橋老人ホーム)を開設した。福祉事業に対する支援者は県内一円に組織化され寄付金と寄贈米が集まる一方で、樺太から台湾まで慈善幻灯会や映画会を開いて資金を集め、その経営を維持した。
 明治42(1909)年に栃木県佐野で開いた慈善会の帰り、文作は発病した。死期を悟ると絶食し、10月7日、「今日は就床99日、絶食33日目だ。これでお暇をする」と言って旅立った。76歳であった。遺体は学術上の研究に役立てて欲しいとの希望で、主治医・萩原密蔵(萩原朔太郎の父)の手で解剖された。
 葬儀は前橋教会で海老名弾正の司式のもと、群馬県知事・神山閏次、キリスト教平和主義者・住谷天来らの弔辞が捧げられた。雨天であったが宮内家から教会まで出棺の先導は70名の院児と10数名の杖にすがって歩く老人がつとめ、会葬者は700名を超えた。
 亡骸は宮内家の菩提寺・長昌寺に埋葬された。群馬県の福祉は、宮内文作の「義気仁侠」の上州人気質とキリスト教の博愛精神によって、その歴史が始まったと言える。 
 また、文作は前橋名物の「片原饅頭」を明治2(1869)年から製造販売したことでも知られている。

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