長昌寺
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能



第一回


仕舞





経正




 

能

長昌寺は群馬県における能発祥の地である。その歴史は戦国時代にさかのぼる。
 天正10(1582)年武田勝頼は、織田信長・徳川家康連合軍に攻められ3月11日甲斐国(山梨県)天目山で滅ぼされた。勝頼の首は、織田・徳川連合軍の先方を務めた滝川一益から先鋒大将・織田信忠(信長の長男)を経て、信濃国(長野県)浪合に陣取っていた信長に届けられた。
 武田氏が滅ぶと、北条氏政は上野国(群馬県)を支配しようと目論んだ。これに対して信長は一益に上野国と信濃国小県・佐久二郡を与えた。そして秘蔵の脇差一腰と馬を与え関東へ入部するよう命じ、「関東管領職」に任じた。
 滝川一益はまず箕輪城(高崎市)に入り、厩橋城(前橋市)へ移った。厩橋城を拠点に上野国支配を行おうとした。一益は、厩橋城に上野国内の諸将を招き、5月に能興行を行った。自ら『玉鬘』を舞い、一益の嫡子・於長が小鼓を、岡田太郎右衛門が大鼓を打った。6月11日には長昌寺で「能組十二番書立、舞台ヲ拵、瓶ヲ十二フセ、総構ヲ大竹ニテ二重」にというふうに、本格的な能興行を行った。これが記録に残る群馬県で最初の演能である。
 馬上でとった天下は馬上で治められぬと、徳川家康は朱子学を重んじたが、一益が能を舞って見せたのは、文武兼ね備えた支配者であることを誇示したものであり、上野国の諸将(城主)は、領主として一益を受け入れた。
 「内藤大和守・小幡上総介・和田石見守・由良信濃守・長尾但馬守・安中左近・上田安徳斎・木部宮内少輔・高山遠江守・深谷左兵衛尉・成田下総守・倉賀野淡路守・(信州)真田安房守」がその配下に組み込まれた。
 ところが、天正10年6月2日明智光秀が謀反を起こし信長が倒された(本能寺の変)。18・19日、一益は上野国の諸将を従え、上野(群馬県)・武蔵(埼玉県)国境の神流川の河原で、北条氏邦を先鋒とする北条軍と対決することになった(神流川合戦)。
 滝川・北条両軍は多数の犠牲者を出したが、戦いは北条氏の勝利に終わり、一益は碓氷峠を越え、信濃国小諸を経て本国伊勢へ引き返した。
 一益は、神流川合戦に敗れて本国へ帰る際にも、上野国の諸将を厩橋城に集め酒宴を開いた。一益が能『羅生門』の一節を鼓に合わせて「武士の交り頼みある仲の酒宴かな」と謡うと、倉賀野淡路守が能『源氏供養』の一節を「名残今はと鳴く鳥の」と返した。
 滝川一益は鉄砲の名人で織田四天王として知られたが、この武将によって群馬県には能がもたらされたのであった。

写真1 写真2
合戦の主戦場である神流川に架かる橋の袂にある古戦場跡の石碑
神流川合戦で一益 が合戦の際に、本陣として軍配を揮った軍配山が今も残る。正式には 御幣山古墳 と云い、この付近一帯の有力な支配者の墳墓
能舞台モニュメント



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