長昌寺
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明治34年
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 創建から500数十年の歳月を刻んだ長昌寺。その道のりは決して平坦ではなかった。戦国武将の祈願寺として由緒あるスタートを切りながら、時代の波に飲まれ廃寺の危機にさらされ、火災で灰燼に帰すこともあった。檀信徒の方々や地域の人々との絆がなければ、今日の長昌寺は存在しないだろう。多くの人々との邂逅、そして支援を受けて、転変する歴史を生き抜くことができた。地域との共生こそが、私たち長昌寺を支えてきた。その歩みをいま振り返ってみたい。


  寛延2(1749)年の「長昌寺伝」によると、曹洞宗で芳林山と称する長昌寺は延徳元(1489)年に創建された。武蔵国(埼玉県)児玉郡骨波田村長泉寺の大洞禅師が開山で、厩橋城主の長野信濃守方業の開基と伝えられる。
 開基の長野氏は、中世、榛名山東麓から南麓にかけて勢力を誇り、在原業平の子孫とされることが多い。在原氏は石上氏と推定され、古代においては石上氏=物部氏である。
 武器の製造管理集団であった石上部が物部氏の分族として大和政権の軍事を担って上野国に派遣され土着したものと考えられている。
 さて、大洞禅師が伊香保温泉へ湯治に訪れていたところ、近隣の人たちがその徳を深く慕っているという話を伝え聞いたのが、厩橋城主長野方業だった。城主は使いを遣って、大洞禅師を城中に招く。
 病身だった大洞禅師だが、城主の熱意に感じて厩橋を訪れる。大いに喜んだ方業は厩橋城中の老松の下に草堂を設けた。そこに城主の持仏の阿弥陀三尊を安置して本尊とした。老松の下にあることから、長松寺(=長昌寺)と称したという。大洞禅師が伊香保温泉に戻ると、その後を海印継義が継いだ。
 大洞禅師は、伊豆の名刹最勝院の継承者として知られている。晩年、最勝院を辞し旅に出て、武蔵国にたどり着いた。地元の武士や庶民が、仏道に優れている大洞禅師を開山として建てたのが、長泉寺だった。
 戦国期、上杉氏、北条氏、武田氏、北条氏らの攻防の中、厩橋城の支配者はめまぐるしく変遷した。天正9(1581)年には火災のため焼失し、城主の北条高広が現在地に再建している。
 翌天正10年、武田家滅亡に伴い、織田信長から派遣され新しい城主となった滝川一益は、近隣の土豪を召集して城中で能興行を催すとともに、長昌寺には町民を集め、能興行鑑賞の機会をもうけた。これが、上州における初めての能興行と伝えられている。
 創建以来、厩橋城と長昌寺に深いつながりがあった証左であろう。こうした関係を示すように『前橋風土記』によれば、長昌寺には、前橋城主累代の位牌、北条氏直、滝川左近、羽柴孫四郎、浅野弾正、平岩七之助らの禁制文や斎田寄進状があると記されている。しかし、度重なる火災のため、残念ながら現存はしない。
 戦乱の時代が終わり、仏教保護政策を保った江戸時代になると、寺院はようやく一息ついた。新たに厩橋城主となった酒井家もまた仏教を重視し、政淳寺、妙安寺、了覚寺、東福寺、隆興寺、養行寺、龍海院といった寺院を次々に前橋に移築した。   
 その一方、酒井家にゆかりのない長昌寺は悲運に見舞われる。酒井忠世が城主だった時、長昌寺領が召し上げられてしまう。万治2(1659)年、酒井忠清の時に長昌寺天察が願い出ると、ようやく寺領田三反歩の交付を受けることができた。
 享保14(1729)年には火災のため全焼。このとき再建できたのは、藩の御用達をしていた宮内家と飛脚業の北爪家という両檀家の力だった。宮内家は、片原饅頭を売り出し、全国でも数少ない上毛孤児院を設立したことでも知られる。
 また、長昌寺の有力な檀家に出羽国最上衆の出身で酒井氏に仕える本城氏がいたが、寛延2(1749)年、酒井氏の姫路転封とともに本城氏もまた姫路に移ってしまった。代わって姫路藩から移ってきた松平氏は利根川の洪水で本丸部分が決壊したため、前橋には陣屋を置く程度にとどめ、川越城に移ってしまう。こうした時代の波に飲まれ次第に長昌寺も衰微していく。
 寛政11(1799)年には、長昌寺の本堂と庫裡を小相木村にある大徳寺に55両で一括売却するという事件が起きる。売渡しの証文には住職の署名捺印がなく、長昌寺末寺の冷泉院の名になっていることから、無住のため維持困難で売り払ったという説もある。
 明治になると廃仏毀釈というさらなる危機が襲う。明治12(1879)年の調査では、長昌寺の檀家は39戸に過ぎない。
 しかも明治34(1901)年には、本堂裏から発火して焼失してしまう。しかし、すぐに再建をすることができた。このとき、越後から前橋に出てきた野中倉吉という人物が、「前橋で一番の貧乏寺を菩提寺にする」と言って、支援したという。後年、野中興業を起こし成功する野中氏の支援もあって、ようやく復興へ向かう。多くの寺院が廃寺に追い込まれた明治時代を長昌寺は生き抜いた。
 明治20(1887)年、県立中学校(前橋中)が、長昌寺の隣接地に移転してくると、界隈は文教地区に様変わりし、群馬県内一円から大志を抱いた青年が集まった当時の活気が忍ばれる。その前橋中(前橋高)も昭和9(1934)年に、天川原へ移転していく。
 明治維新百周年を記念して昭和43(1968)年、交響詩曲「ぐんま」(鈴木比呂志作詞、服部良一作曲)が創られた。この曲中、風神雷神に流れる観音経の大合唱は、長昌寺先代住職栗木虔堂の読経(観音経)を採譜し完成したものだという。
 有為転変を繰り返しながら、平成元(1989)年、長昌寺は開山500周年を迎え、同25年には東日本大震災を乗り越えて開山500回大遠忌・落慶式典を挙行した。



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