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上毛孤児院之墓地


 長昌寺の墓地には、新島襄の愛弟子である堀貞一とその家族も眠っている。
 同志社で新島襄から教えを受けた海老名弾正、不破唯次郎、柏木義円らは、安中教会や前橋教会の牧師として地域社会に大きな影響を与えた。前橋教会牧師・堀貞一もその一人であった。
 堀は文久三(1863)年大阪城内に生まれた。明治9(1876)年に新島襄から洗礼を受け、同志社神学校在学中に新島校長による「自責の杖」事件がおこり、その場に生徒として居合わせた。長浜、新潟、横浜などを経て同32(1899)年に前橋教会牧師となり、同時に共愛女学校長を兼任した。
 堀牧師のもとに、萩原朔太郎・高畠素之・井上日召らが出入りした。日召は一回、朔太郎は二回落第して、この三人は県立前橋中学校の同級生であった。当時の同校は長昌寺の北側(群馬中央病院)にあった。高畠は同志社神学校に進み、我が国で初めて『資本論』を完訳した国家社会主義者であった。いっぽう井上は血盟団事件の首謀者であった。
 この三人のほかにも生涯に亘り堀牧師を尊敬したのが講談社を創設した野間清治であった。野間は明治11(1878)年現在の桐生市に生まれ、同29(1896)年に前橋市にあった群馬県師範学校に入学した。野間が学んだ頃の師範学校は現在の前橋市役所のところにあった。師範学校時代の野間は、前橋教会に出入りし堀牧師の説教を熱心に聞いた。
 明治42(1909)年、野間は「大日本雄弁会」を創設、翌年雑誌『雄弁』を創刊して以来、次々に雑誌を世に送り、大正13(1924)年に社運をかけ創刊した雑誌『キング』が大成功を収め「雑誌王」と呼ばれた。野間の薦めで堀は『キング』に「新島襄先生を懐ふ」などの論文を寄稿した。
 『野間清治伝』は群馬県師範学校の後輩で東京帝国大学教授・中村孝也が執筆した。その中で野間は「四書の礼賛者であり、聖書の研究者」と書かれているように、堀から学んだキリスト教が野間の精神的な糧となった。
 堀牧師は長昌寺に父・貞幹の墓を建てた。墓碑の裏面から、父は旧丹波亀山藩士(京都府亀岡市)で、明治時代に判事なり明治34年に没したことがわかる。そして、大正6(19117)年に、そのとなりに「堀家之墓」を建立した。これは長男・一雄が同四年に亡くなったからであった。堀は昭和18(1943)年に東京で83歳でその生涯を閉じ、「第二の故郷前橋」の堀が建てた墓に葬られた。

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